緩い場

 緩い。アイスランドで芸術作品があるところの多くでこう感じ、それは今でも改められていない。厳重な警備があるわけでもなければ、鑑賞者が唾が飛ばないようにと気をつけることもない。そうしなければならない、と強弁を振るう気は更々ないが、芸術作品をとりまく緩さに驚くことが、時々ある。

 アイスランド絵画の巨匠のとある作品は、陽に晒されつづけたせいなのか、歪み、剝落もしている状態で田舎のカフェに掛けられていた。
 そこの店員に、あれはキャルヴァル(Kjarval)の作品で間違いないのか、あのままだと劣化する一方だろうけれどそれでもいいのか、と訊いたところ、作者についても作品についても、また、店の方針についてもまったく知らない、とのことだった。人に見られてこそなんぼなんだ、というような返答を期待していたところがあったから、僕の返礼はしゃっくりのようにうわずってしまい、びっくりしてお互いに顔を見合わせた。

 最近は内装でも外装でもコンクリート壁そのままのものが多いアイスランド。壁面に裏板のない額縁を掛け、コンクリートを鑑賞できるようにしても様になるのではないか、と意地悪に思いついた気もする。

 繰り返しになるけれど、作品の扱いを非難する気持ちはない。ただ、「敬意と細心の注意をもって作品を扱う」ことが当たり前だと思っていたから、それが必ずしも一般的でないことに、すこし驚いていたのだ。

 とある村では村民の書いた油絵が売られていた。購入者と製作者、それからギャラリーのスタッフの三者が集まって作品を受け渡す場に、たまたま僕もスタッフの補助として居合わせた。すこし困ったことに、そこには梱包材がなかった。購入者は、すぐに持って帰りたい、とのこと。では何か代わりとなるものはないかと探しはじめ、見つかったものは、20リットルの黒いビニール袋だ。
 これはさすがにないだろう、と思ったのは僕ひとりで、他の全員は、丁度いい大きさ!と弾んだ声で大きな袋の口を広げ、緩衝材もなしに直ぐさま作品を包み込んだ。笑顔の購入者は、口が縛られたそのゴミ袋を車の荷台に放り込み、颯爽と走り去っていった。

 アイスランド人の自宅に招かれたとき、そこで絵画や彫刻作品を見つけることは珍しくない。それは有名な人の手によるものかもしれないし、親族や、本人の作品という場合もある。そこに気取りはない。

 作られた。気に入った。飾った。
 もしくは、
 作った。気に入った。飾った。

 それ以上のものは必要ないでしょう? そんな思いがあるような気もする。

 いつか床子編『任意の夜n』で、レイキャヴィーク市立図書館グロウヴィン(Grófin)館内にあるアート・ギャラリー(だと思われる)「アルトウテーク(Artótek)」について、ほんの少しだけ話をした。
「名のある芸術家じゃなくて趣味の人がお願いして置かせてもらってるものがけっこうあ」る、と言ったのだが、これは不正確だったかもしれない、と思い、「アルトウテーク」の紹介ページを(関係者の意向に沿って)翻訳した。[1]アルトウテーク(Artótek) レイキャヴィーク市立図書館グロウヴィン(Grófin)館内アートギャラリー」を参照。
 実際、不正確だった。
 作品を置いているのは、「SÍM」ことアイスランド美術家協会(Samband íslenskra myndlistarmanna )に所属している人たちで、その人達の多くは、専門教育を受けている。

 ではなぜ趣味の人たちも作品を置いていると思っていたのかといえば、初めてアルトウテークを訪れ、誰が作品を展示できるのか、と図書館員に訊いたときの返答が、誰でもいいんだよ、プロでもアマチュアでも、頼めばいいんだよ、というものだったからなのだが、これは僕の記憶違いかもしれない。

 ともあれ、このギャラリーは、僕がアイスランドの芸術作品に初めて触れた場所だ。ここで、アイスランドの芸術を取り巻く環境はゆるい、というイメージが芽生えた。

「アルトウテーク(Artótek)」という名前の意味は、「アートを手に」ではないかと思っているのだが、それを確かめるためにメールで問い合わせたが、まだ返答はない。

(レイキャヴィーク市立図書館グロウヴィン館の1階にある彫刻作品)