妖精の起源

 あるとき、ひとりの男が旅をしていた。男は道に迷い、どこに向かって歩いて行けばよいか分からなくなった。暫く歩き続けてようやく一軒の農場にたどり着いたが、そこはまったく知らないところであった。男は母屋のドアを叩いた。中年を過ぎたひとりの女が戸口まで出てきて、中に入るよう促し、男はそれに応じた。母屋は農場の建物のなかでも立派な方で、居心地がよかった。女が案内した居間の前には、若くて美しい二人の娘がいた。この娘たちとその母である中年を過ぎたひとりの女を除いて、男が見た人間は他に誰もいなかった。男はよくもてなされ、食べ物と飲み物をもらい、それから寝床に案内された。どちらかの娘と寝てもよいか、と男が訊ねたところ、それは聞き入れられた。そうして男と娘は横になる。男が娘の方を向こうとしたときのことだ。娘がいたところに誰の身体もないことに気づいた。男が手を伸ばせば娘に触れる感触があるのだが、手の間には何もない。さっきまで娘はベッドの上で大人しくしていて、男はその姿をずっと見ていたはずなのだが。いったいこれはどういうことかと男は娘に訊ねる。驚いてはいけません、と娘は答え、さらに「私は肉体のない存在なのです」と続けた。「遠い昔、悪魔が天界に混乱をもたらしたとき、悪魔とそれに付き従って戦ったものはすべて、かの冥界へと追放されました。悪魔を讃えるものもいましたが、そうしたものはみんな天界から追い出されました。悪魔に与することも対することもなく、どちらの陣営にも入らなかったものは、下界の地上へ落とされて、丘や山や岩のなかに住むように命じられ、今では妖精や隠され人と呼ばれています。彼らは自分たち以外には何者とも一緒に住むことが出来ません。善行と悪行のどちらをすることもできますが、するとなればどちらも徹底的に行います。彼らは貴方のような人間と同じ肉体を持っていませんが、自らが望む時には貴方たちに姿を見せることができるのです。私は、その隠された存在から生まれた身ですから、貴方はもうこれ以上のものを私から得ることは出来ません」。男はこれを受け入れて、その後、娘が釈明したことを人々に語った。

 

(„Uppruni álfa“ 1862. Íslenzkar þjóðsögur og æfintýri. I. bindi. Safnað hefur Jón Árnason. Leipzig: J.C.Hinrichs. Bls. 5-6.)

隠され人の起こり

 あるとき、全能の神がアダムとイヴのもとにやって来た。彼らは心から神を歓迎し、家にあるものを全て見せた。自分たちの子どもたちも見せたところ、神にはその子たちは前途有望に思えた。見せてくれた子たち以外にも子どもがいるのではないか、と神は訊いた。いいえ、とイヴは答えた。実のところ、何人かの子どもたちの身体を洗い終えていなかったため、イヴはその子たちを神に見せることを恥じて隠していたのだった。そのことを神は知っていた。「私の前から隠さなければならないものは、人間の前からも隠さなければならない」。そうして隠されていた子どもたちは人間の目には見えなくなり、岩だらけの丘陵や草の生えた丘、大岩などのなかで暮らすことになった。彼らからは妖精[1]タイトルにある「隠され人(huldufólk)」のこと。アイスランド民話において主に妖精は、隠され人のことを指す。が生まれ、イヴが神に見せた子どもたちからは人間が生まれた。妖精自身が望まない限り、人間は決して彼らを見ることができないが、妖精たちは人間を見ることができ、自分の姿を人間に見えるようにすることもできる。

 

(„Huldumanna-„Genesis.““ 1862. Íslenzkar þjóðsögur og æfintýri. I. bindi. Safnað hefur Jón Árnason. Leipzig: J.C.Hinrichs. Bls. 5.)

脚注

脚注
1 タイトルにある「隠され人(huldufólk)」のこと。アイスランド民話において主に妖精は、隠され人のことを指す。

古木のベンチ

 目の前に広がる茅色の水草は、強風に倒され、小川でバタ足をするように揺れている。
風が草を切り、水を叩く音に混じって、間延びした車のクラクションが響き、着陸前の飛行機は轟音を鳴らすところの近く、橋のうえにベンチがある。

 アイスランド大学の敷地内の湿地のことだ。
 研究目的で管理されているところだが、渡り鳥の産卵期を除いて開放されていて、回り道を望むときには都合のよい道が一本、その湿地を横断している。
 どの建物の入り口にも直通していない板張りの道、冬には凍結して安穏に歩けないそのほぼ橋の半ばに、おそらく流木であろう古木を切り分けたベンチがある。

 古木のベンチに座ったときに視界に入るのは、緑を落とした水草と小川を遊泳する鴨らしき鳥。
 奥の方にはレイキャヴィーク空港のフェンスと格納庫の一部が僅かに見え、滑走路で出来た小さな地平線は視野を越え、左に首を振れば、片側三車線の道路を跨ぐ歩道橋の一部も確認できる。

 このベンチは、座るためのベンチなのだろうか。
 手をぶら下げたままでいるのに耐えられず、手を揉んだり、後ろで組んだり、ポケットに入れたりするようなものではないのだろうか。
 空間を埋めるためのベンチではないのか。
 そう思うのは、自分が無為に過ごすことに未だ耐えられないでいるからかもしれない。

 このベンチ、外面はよい。
 座ってみないことには、なんて座り心地がよくないのかと驚き、空間を埋めるためのベンチなのかと疑問に思うこともなかったかもしれない。

 とある詩人の銅像が座るベンチもあるレイキャヴィークで、ベンチを目指して足を向けるところは、今のところ、ここ以外にはない。