グズヨウン・ラグナル・ヨウナソン著『他面』について

グズヨウン・ラグナル・ヨウナソン著『他面』(2018年、Sæmundur)の仮訳と合わせて

書名(原語):Hin hliðin: Hinsegin leiftur- og örsögur
書名(仮):他面――クィア掌編小説
著者名(原語):Guðjón Ragnar Jónasson
著者名(仮):グズヨウン・ラグナル・ヨウナソン
原語:アイスランド語
出版年:2018年
版元:Sæmundur
ページ数:95
https://www.forlagid.is/vara/hin-hlidin/

 

 今でこそLGBTQフレンドリーな国とされるアイスランドだが、20世紀の終わり頃まではまったくそうではなかった。彼/彼女らは奇異の目に晒され、無知や誤解が原因で疎まれ、その存在が表立って語られることもないままに社会の恥部として隠されてきたこともあったようだ。そして今なお「普通」との乖離に苦しむ人々がいることがアイスランドにいることは事実である。しかしながら、よりよい社会を目指して様々な運動が現在行われており、一定の成果を上げている。

 たとえば、2019年6月18日にはジェンダーの自己決定権についての法律(Lög um kynrænt sjálfræði)[1] … Continue reading が国会で可決された。この法律は、今年で20年目を迎えたレイキャヴィーク・プライド(アイスランド語では「クィアな日々(Hinsegin dagar)」)の記念冊子でも取り上げられ、そこでは、トランスジェンダーやインターセックスの人々の置かれた状況を改善していくための重要な一歩である、と熱く語られている。[2]Tímarit Hinsegin daga 2019. 2019. Reykjavík: Hinsegin dagar í Reykjavík. Bls. 18−24.

 LGBTQの権利獲得運動やその社会的認知度を向上させるための活動が盛んである一方で、アイスランドの文学作品などでクィアがどのように描かれているかは、つい最近までアイスランド国外では殆ど知られていなかった。

 国際的に高い評価を得ているアイスランドの詩人・作家であるショウン(Sjón)の小説『月の石』(原題:Mánasteinn)に登場するマウニ・ステイトン(Máni Steinn)がクィアであることは、もしかしたら英語圏を中心に同作の翻訳が出版された地域では知られているかもしれないが、後述するグズヨウン・ラグナル・ヨウナソン(Guðjón Ragnar Jónasson)の『他面』(原題:Hin hliðin)や、男性でも女性でもない一人称「hán」を用いて書かれた、エイリクル・エルトン・ノルダール(Eiríkur Örn Norðdahl)の戯曲および小説『ハンス・ブライル(Hans Blær)』[3]エイリクル・エルトン著『Hans … Continue readingのことは、日本はおろか、アイスランド国外でほぼ知られていないだろう。けれども、日本でも公開されたグズムンドゥル・アルトナル・グズムンドゥソン(Guðmundur Arnar Guðmundsson)監督の映画『ハートストーン』(原題:Hjartasteinn)をきっかけに、アイスランドの社会運動だけでなく文化にも興味をもった人はいるかもしれない。上記の小説にせよ映画にせよ、クィアに関する側面ばかりが取り沙汰されることになるのはどうかと思うが、それでもアイスランドという国を知る機会となっているのかもしれない。

 さて、以下に仮訳を載せるグズヨウン・ラグナルの『他面――クィア掌編小説』について簡単に紹介しよう。本書は、主に20世紀後半から近年にいたるまでのアイスランドにおけるゲイを取り巻く環境についての追憶が収められた掌編集である。舞台は主に首都レイキャヴィークに限られ、ひとりの語り手の経験に基づくことのみが語られるため、1984年に出版されたグズベルグル・ベルグソン(Guðbergur Bergsson)の短編小説集『Hinsegin sögur』(この書名は「おかしな話」もしくは「クィアな話」と訳せる)で描き出されたような奇抜な多様性は見られない。『他面』の平易な筆致で明らかにされるのは、今まで大きな声で公には語られないままに見逃されてきたり、卑俗な笑い話として消費され、そのまま忘れ去られようとしているアイスランドのクィア(本書では主にゲイ)の姿である。当たり前のことだが、レッテルを取り除いたところにあるのは、いつの頃でもどこにでもいるであろう素朴な人間の姿だ。

 作中で語られる事柄が、もし読者の日常とどこか縁遠いものに感じられるのであれば、それは自分自身には関係ないと今まで断じてしまっていたからかもしれない。たとえば、首都レイキャヴィークのロイガヴェーグル通り22番地で「夜の劇場」と呼ばれていたゲイ・バーでの出来事や、結婚しないが故に奇異の目で見られ囃し立てられる郊外の農夫の噂話、かつてゲイを指す言葉としてアイスランドで使われた「sódó」(ソドム(Sódóma)からの造語)など、同じような事例を私たちは知っているだろう。

 それから本書には、今やアイスランドの一大イベントとなったレイキャヴィーク・プライドについての掌編群もある。そこでは、語り手たちが自らのために催しを始めたものの、やがてイベントが巨大化して当人たちの思惑外のことが舞い込んで、そして大きな経済や政治に巻き込まれていった様子が描かれている。現代社会で自分たちの姿を正当に見てもらうため、自分たちの声を届かせるためにはどうしたらよいのか。そう考えるのは、何もマイノリティと呼ばれる人たちのみではないはずであろうし、散見されるアイロニーにハッとする読者もいるのではないだろうか。

 見ることと見られること、語られることと語られないことを絶えず意識するよう読者に促す語り手は、あくまでも自分が見聞きしたものをそのまま伝えることに終始する。何かを直接告発するわけでない語り手を糾弾する声や、その語り口がナイーブ過ぎると訴える声が読者のなかから上がることもあるだろう。もしくは、語り手が重要性を訴える行間を読む行為が、作中に登場する下品な出歯亀の小市民と重なるようにも思えるかもしれない。しかし、『他面』を読む者は自問せずにはいられないだろう。目にしているものが何か知っていると、もしくは、尤もらしく語られていることが実際何であるかを知っていると断ずる前に、はたして目の前にあるものをただ見ることが自分はできているだろうか、と。何かを見るのに色眼鏡をかけていないか、解釈の前に、問題とされる行間が一体どれのことか知っているだろうか。自分がしているのは、レッテルを剥がす行為か張る行為か。

 もちろん、あらゆる先入観をなくし、ただ物事を見ることは不可能なのだが、そうした前提で本書『他面』が試みるのは、そのようにあるそれ自体の在り方が否定的に扱われて記録されてこなかったものを掘り起こして記述すること、そして、それそのものを受け止め直そうとすることであろう。作中に読者が目にするのは、もちろんアイスランドにおけるクィアの実情すべてではない。未だに隠され言及されないままのことは当然あるはずだ。けれども読後には、本書で語られたことばかりでなく、語られなかったことにも自然と意識が向くだろう。もちろんそれは、LGBTQに関することに対してばかりではないはずだ。

脚注

脚注
1 この法律の一部を紹介すれば、15歳以上のすべての個人は自らの意思で住民票上の性を変更することができ、その際には、外科的療法、薬物療法、ホルモン療法などの医学療法、及び、精神医学的療法や心理学的療法を要件としてはならないことや、法人や個人が発行する身分証明書や記入用紙などに性別の記入欄を設ける場合、男女のどちらでもない性を選択できるようにしなければならないということが定められている。参照:Lög um kynrænt sjálfræði nr. 80/2019.
2 Tímarit Hinsegin daga 2019. 2019. Reykjavík: Hinsegin dagar í Reykjavík. Bls. 18−24.
3 エイリクル・エルトン著『Hans Blær』は、アイスランドのLGBTQコミュニティから痛烈に批判されているが、おそらくアイスランド文学史かつ/またはアイスランド語史において今後避けて通ることはできない作品になるだろう。これについては別の機会に書きたいと思う。